不登校や引きこもりといっても、困り事の内容は(そもそも困っているどうかも)人によって異なる。ここでは私自身のケースについて振り返り、似たような困り事を持つ人に伝えたいことを書こうと思う。私は、高校1年の秋、学園祭の翌日から2週間ほど布団から全く起き上がれない状態が続き、その後徐々に登校できなくなり、1年の1月ごろから完全に不登校になって、その後高校を中退した。
不登校になった経緯の詳細
私の中学時代は、どちらかというと適応的な子どもだったと思う。私の通っていた中学校は、学級崩壊とまではいかなくとも、柄の悪い子どもが多かった。特に女子は陰湿で、特定のターゲットをトイレに連れ出して全員で悪口を言うようないじめがあった。私は普段ぼーっとしていて動きも鈍く、空気が読めないところがあったため、自分がターゲットにならないよう必死に周りの子に合わせていた。中学校ではそれで人間関係がうまくいっていたことから、高校進学後も必死に周りに合わせる癖が抜けなかった。しかし、進学した高校はある程度良識のある人が多かったし、皆の精神年齢も上がっていた。自己を肯定し、かつ他者を尊重するコミュニケーションができる人たちは、何のためか必死に周囲に縋りつこうとする私を見て、奇妙な感じを覚えたのかもしれない。
実際の理由はその人たちに聞いてみないと分からないが、とにかく私は高校で「ぼっち」の状態になった。中学校の人間関係が嫌で、誰も知り合いのいない高校に進学したことや、私の性格がかなりの人見知りであることも、この「ぼっち」状態に貢献したとは思うが、とにかく圧倒的に影響力のあった要因は「コミュニケーション能力」や「柔軟性」の問題であった。女子においては、特にこういった問題が友人関係を左右する傾向がある。私は、周囲の状況を見て臨機応変に思考や対応を変えたり、他者の視点から物事を捉えたりすることが苦手だった。そんな人間があたふたしながら必死に擦り寄ってきたら、私としても良い気はしない。私は、高校では「誰からも友人になりたいとは思われない人」だったのである。しかし、問題はそこではない。他者の気持ちもろくに分からないくせに他者評価を異常に気にしてしまう私自身の性質にあったのである。爆笑問題の太田光のように自ら進んで1人の状態を謳歌できる人もいるが、私のような人間は、「学年で唯一ぼっちの女」という目で見られていることが苦痛で仕方なかった。
その後どう対応したか
不登校になった後の1年間は、抑うつ状態もあったため、精神科を受診した。しかし、診断名はつかず、薬も出されなかった。唯一明らかになったこととして、知能検査において私の特性について次のようなことが指摘された。「物事の処理が平均的な人よりかなり遅く、また視覚的情報の処理が苦手である。しかし聴覚情報の処理力や言語能力は平均的にある」ということだ。私はそれを聞いて、自分がこれまで経験してきた曖昧な苦しさの原因をそこに落とし込むことができたような感覚があった。一方で、人と比較して劣っていることしかないという点においては本当に胸が痛くなった。私は検査を受ける時、人と異なる特性を持つ人のステレオタイプ的なイメージ、つまりそれは「何か一点には秀でた才能がある」ということを期待していた。ただ、自分には特別な能力は(少なくとも知能検査と呼ばれる指標においては)特になかった。
その後1年間は英語など自分の好きな教科を優先的に勉強しつつ、高卒認定試験の勉強を並行しておこなった。高卒認定試験は、俗にFランクと呼ばれるレベルはともかく、日東駒専くらいの大学を受験するよりはかなり容易だった(ただしこれは10年近く前の話である)。そして、高校3年に該当する年の夏頃から猛勉強して大学を受験した。晴れて大学に進学した後は、適度に健常者エミュレーション(発達的な偏りを顕著に表出しないように振る舞うこと。ネット用語というか、少なくとも専門用語ではない)を上達させつつ、そのままの自分を諦めて、でも楽しく生きている。
今だから言えること・伝えたいこと
私のように、人と違っていたり、人と比較して何かができなかったりすることに悩んで不登校になったり、引きこもりになっている人へ伝えたいこと。それは、「劣等感はバネにもなる」ということである。確かに、どれほど頑張っても生まれつき能力の高い人に敵わないという事実はきっとあるだろう。でも、そもそも敵わないような人と自分を比較しても苦しみしかない。そんなことに時間を使うくらいなら、今自分が何に悩み、苦しんでいるのか、それを解決するにはどんな努力ができるのか。そこに向き合えばいい。悔しい、苦しいという気持ちは、行き過ぎては病気になってしまうが、ほどほどならばバネになる。
しかし、悲しいことに、その努力の結果でさえ、世の平均値より低いということで周りから蔑まれ、必要とされないかもしれない。生活的に苦しくなる時が来るかもしれない。結局他者評価ばかりで生きている限りは、自分が劣等生であることが付きまとう。そこに悩むときは、他者評価と関係ない自分の救いを何か一つ見つけて、そこを支えとすることをお勧めする。できれば強力なものがいい。私の場合、音楽や詩を摂取することで、毎日生活の中で触れている。独りよがりで生産性のないことだと言われるかもしれない。ただ、誰が何といってこようと、これは必要なものである。なぜなら、今それをしている自分が、今までの中で一番幸せな自分だからである。でも、そこに辿り着くまでにすごく長い時間がかかったし、ずっと苦しみ続けてようやく手放せたので、すぐに苦しみを手放せる最終奥義みたいなものは残念ながらお伝えできない。これを読んですぐできることでもないと思う。ただ、こうして立ち直った人間がいることを、頭の片隅に留めておいてもらえたら嬉しい。
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