はじめに
私はこれまでに何度も転職をしてきたが、転職サイトで仕事を探す際、希望の条件の他に業種のイメージの良し悪しにも重点を置いて探していた。(例えば外仕事は辛そうだから嫌だとか、飛び込み営業はなんか大変そうだから嫌だ、とか…。)
今回のテーマを目にした際に、底辺の仕事とは誰にでもできる仕事、と瞬時に業種の話であると認識してしまったが、本質はそこでは無かった。そもそも底辺の正体とは何であるのか。
「底辺の仕事」について、勉強会の内容や感想を記載する。
底辺の正体
今回のテーマの前に、仕事に限らず人や立場や様々な事柄に「底辺」は存在するが、そもそも底辺とは何であるのか。
例えば「底辺の人」をテーマにしてみると、「いてもいなくても困らない人」や「知識やスキル的に無能な人」や「人から言われたことしかできない人」等の意見が出てくる。
これは「人間性」や「将来性」に焦点を当てており、尚且つ客観的な要素が含まれている。
では、そんなイメージを持たれている底辺の人間がいるとして、何らかの理由で経済的にとても余裕があるとしたらどうであろうか、そして自分は底辺の人間に当てはまる要素が全くないと言えるだろうか。
まずは底辺であるかどうかの評価軸として「人間性・将来性・経済力(お金)・社会的地位・自己実現」の5つが挙げられる。
現在は資本主義が定着している日本において、この評価軸の有無により良し悪しが判断されてしまう。そして、どの評価軸に重点を置くのかについては、時代背景により変化してきている。
過去、特に庶民は生きることに精一杯であり、食べ物を確保すること、貨幣社会になってからはお金を稼ぐことに重点を置いていた。しかし時代が経つに連れて、お金の余裕に差はあるものの、生き死にレベルで貧しい人は少なくなってきており、「生きることは最低限できる」という前提のもと評価軸が幸せに生きること変化してきている。
そのため、冒頭の「底辺の人間」の話に戻ると、現代では人間性や将来性として評価してしまう人が多いが、そこに経済力が加わることで、少なからずでもイメージは変わるであろう。
底辺を考える上でもう1つ重要なことは、主観的目線か客観的目線か、ということである。
評価軸に当てはめてみると、人間性や将来性は客観的な見え方であり、経済力と社会的地位は主観からも客観からも双方から見ることができ、自己実現においては主観的な見え方である。
例えばあまり稼ぎのない陶芸家がいるとして、貧乏で将来性も無く底辺な人、と考えてしまう人もいるだろう。これは客観的な見方であるが、しかし陶芸家本人はどうであろうか。周囲からそんな風に思われていようがいまいが、本人は自分が好きな陶芸で生きていくことができて幸せであると主張されたら、その人のことを本当に可哀そうな人、底辺な人と見ることができるだろうか。仮に強がりであろうとも、幸せである人と理解すべきである。
底辺の人かどうかを判断する場合、その人の仕事や生き方のイメージ等で判断してしまいがちになるが、確かに周囲から見た場合には底辺に見えても、本人が幸せであると感じているのであれば、周囲の評価に関係なく底辺の人間ではない。
つまり、客観的にしても主観的にしても評価軸が1つでも存在すれば底辺には属せず、評価軸の要素を1つも持っていないことこそが底辺の正体である。
底辺の仕事
前述の内容を踏まえると、底辺の仕事とは職種で判断されるものではなく、評価軸の要素を1つも構築できない、あるいは結びつけることができない仕事のことである。
評価軸はもともと備えているものではなく、自身で構築し大きくすることや増やすものである。(生まれが裕福な場合等、例外もある)
そして大多数の人が人生の大半を社会人(=働く)として生きていくため、働くこと自体や働くことに派生することで評価軸を構築していく。
働くことで経済力も上がり、将来性も期待され、社会的地位を上げることができ、どんなに経済力が上がらなくてもやりがいや楽しさを感じることで自己実現が構築される。もちろん評価軸は大きければ大きいほど、多ければ多いほど幸せであるが、まずは何か1つでも構築することが重要である。
つまり、それらの構築に繋がらない仕事こそが、底辺の仕事である。
しかしながら、底辺の仕事をしているからと言って、その人が真に底辺であるとは必ずしも当てはまらない。そこにはその人の環境が関係しており、たとえばパートタイムの主婦と独り身のフリーターを比べてみる。
パートタイムの専業主婦は、特に給料が良い訳でもなく、勤務態度も良いとは言えず、本人も特にやりがいや楽しさを感じていない。しかしながら、主婦であるからには稼ぎ頭の夫がいる時点で、生活自体には大きく困っていない。仕事自体は底辺でも、環境に幸せ要素があれば底辺の仕事をすることに大きな問題は無く、不幸せには繋がらない。
一方で独身のフリーターについて考えてみると、毎月の稼ぎが少なく、勤務態度も良いとは言えず、もちろん将来性や社会的地位もなく、仕事にやりがいも感じていない場合、これは真に底辺の仕事をしていると言える。生活自体も厳しく、楽しいと感じられることもなく、まるで幸せ要素がない。ここまで来てしまうと底辺の仕事どころか底辺の人という位置づけになってしまう。
底辺の仕事と言っても一括りに不幸せに繋がるとは言えないが、特に年齢が若い時から底辺の仕事をすることはおすすめできない。まだ動ける体力や気力があるため、評価軸を構築できるチャンスは大いにある。
そして転職においても、転職自体が悪いことではなく、底辺の仕事になってしまいそう、あるいはなってしまっているのであれば転職の機会である。評価軸を構築する中で、もちろん将来のための先払いとして苦しい思いや経験はあるが、しかしながらいつまでも給料も上がらず苦しいことばかりである上、やりがいも感じられないのであれば、転職は視野に入れるべきである。
反対に、人間関係に悩んでいる等の定量的でない理由で転職をすることは避けた方がよく、そんな理由で転職しても、転職先でまた同じ理由で辞めてしまうことに繋がりかねない。
自分が底辺な存在でいたくなければ、他人のことを考えることや他人に口を出す前に、まずは自身の仕事における評価軸の要素を構築しなければならない。
Appendix やりがいの搾取
評価軸の構成要素である自己実現において、自己実現には健康なものと不健康なものが存在する。特に若手の場合、自己実現の1つである「やりがい」に付け込まれて利用されやすく、このことは「やりがいの搾取」とも呼ばれる。
例えば若手にやりがいのある業務だと任命し、さらにそのやりがいを持ち上げることにより、心理的にやりがいで満たす。その後、満たしたやりがいを良いことに給与が発生しない長時間労働をさせる等、不健康なやりがいを構築させる。その結果、業務を任命された若手は不利な状況であってもやりがいだけを頼りに自身の身を削ることとなる。これは極めて不健康な状態であるが、ここまできてしまうと何かが大きく崩れない限りは自身も利用されているという事実に気付きづらくなってしまう。自己実現には他人が口を出す必要な無いが、不健康な自己実現に関しては口を出さずにはいられない。
自己実現は、自身の評価により構築されるものであり、健康であればモチベーション向上に繋げやすい素晴らしい要素であるが、そこに付け込まれてしまうと不健康な要素となってしまう。一概に自己実現とは良いことばかりと思わず、健康であるのか不健康なものであるのかは冷静に判断しなければならない。
感想
以前、社内の何気ない会話から底辺の仕事について考えた時、「底辺の仕事」という、底辺と仕事を一括りの単語として考えてしまったことから職種に捕らわれてしまっていた。しかし、そもそも仕事に限らず「底辺」という単語の本質を考えてみると、底辺の対象に捕らわれるのではなく、底辺に目を向けるということが重要であると感じた。
底辺の評価軸の要素を自身に当てはめてみると、正直なところ自己実現以外は当てはまらないと認識しており、自己実現に至ってもまだまだ小さいものであると感じている。しかし、この小さな自己実現がある限りまだ構築する要素が残されており、また自身も不幸せと感じていない。この要素がさらに構築できるよう、現状自身に足りていないものやそもそも少しも身に付けられていないものを分析し、構築していかなければならない。
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